奇抜なデザインは簡単

デザインと聞くと「芸術」を連想される方もいます。「デザイナー」とは常に先進的で刺激的な創造を行い、そのクリエイティブの結果を私たちに披露してくれるのではないか、と。そして私たちはそのクリエイティブされたものを楽しみ、批評し、次回作に期待する・・・。まるで画家や彫刻家であるようなイメージです。確かにその側面もあります。決して間違いではありません。中には奇抜なデザインで私たちを驚かせるデザイナーも数多くいます。どのような分野でも、それが「それ」であることを疑わせるくらい奇抜なデザインのものはあるものです。ある人はそれを好んで使い、ある人はそのようなものは観賞用であるとして敬遠したりします。そうです、「モノ」には「実用性」というステータスが必要なのです。
奇抜なセンスというものはいつの時代でも存在します。奇抜なセンスを武器にしているデザイナーも数多く存在します。「奇抜だ」という感覚は時代と共に推移していくものですし、そのデザインが人に与えるイメージというものもなかなか固定させることはできません。そのモノの本質としては外れてしまうかもしれないが、敢えてそうした、というモノは案外多いです。人はそれを見て「なんなんだこれは」と感じたり「面白いデザインだ」と感じたりします。ですが、そもそも「奇抜」なデザインは「簡単」です。なぜかというと、その「モノ」にこだわればそのモノの本質から外れた誰も意図しないような外観を与えれば良いからです。何も難しくはありません。マンションをクジラの形にデザインすることも、滑り台の形をしたブランコをデザインすることも、ある程度のスキルがあればできるのです。また、未だかつて誰も見たことがないような異形の姿をそのモノに与えることもできます。デザインとは、クリエイトとは、「自由」であるのです。受け手がどう感じようと関係ありません。「作ってしまえばいい」のです。
そんな遊び心溢れるデザインが世の中を満たせば、どれだけ楽しい日々になることでしょうか。反面、私たちはその「モノ」が何であるかを捉えることが困難になります。車だと思って乗りこんでみたら公衆電話であったり、駅だと思って入れば病院だったり、交番だと思ったらショットバーだったり・・・。そのようなことになればもはや「デザイン」は意味をなさなくなります。車の形をした公衆電話には「公衆電話」と記されていなければわからなくなるのです。また、それが全く異形の形をしていても同じです。「何なのか」という名札を付けてもらわないと認識できなくなります。奇抜なデザインは簡単ですが、なぜ世の中に溢れていないのか。その理由は「無駄」だからです。必要がないからです。観賞用であればいいのです。全くの異形の存在として、見て、触れて楽しむためならいいのです。ですが日常生活でそのようなモノばかりでは姿かたちでそのモノの本質を捉えられなくなるのです。奇抜なデザインを作ることは簡単です。ですが、ほとんどのモノはそれでは私たちに馴染みません。認識できないモノばかりが溢れては困ります。ですから、イスはイスとして、扉は扉として存在しています。それかデザインなのです。

 
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